Entry

トップ > 有栖川有栖 > 逃げ水

逃げ水

逃げ水:火アリ


牛乳を買いに行ってくると私は火村に云ってコンビニに向かった。
桜も舞い落ちた季節だ。上着を羽織らず出て買い物を済ませる。
コンビニの入り口を出た所でもやっとした熱気を感じた。

ーあ、逃げ水やー

日本各地でもっとも発生頻度も極めて高い下位蜃気楼。
追っても追っても逃げる逃げ水。

ー蜃気楼のオアシス。夏場の暑い時はあれを見るとそこに逃げたくなるー
ーでも追っても逃げ込み事は出来ない。そこで安らぐ事は出来ないー

少しそれを見ていた私はマンションに向かう足を反対方向に向けた。


学生の頃、火村と二人で図書館に向かっていた時の事だ。
あの時私は犬の様に舌こそは出してはいなかったがぜぇぜぇと
大袈裟に呼吸をしながら汗をだくだくと流し、その道のりを歩いていた。
その日は猛暑だったのだ。
そんな私を火村は涼しい顔をして鍛練が足らんと毒づく。
毒づかれた私はもちろん面白くはないが、そんなことよりも早く
涼しい所で安らぎたいと思っていた。
はよぅ図書館のクーラーを拝みたいなぁとぼやいてる私に
火村は一瞥をくれると見て見てろよ、と前にある道路を指差す。
逃げ水だった。
「あんなん見せられても涼めるかっちゅの」
「まあな」
「追っても逃げるんやったら意味ないやろ~。安らげへん」
俺は早くクーラーの風にあたりたいんや、と今度は大きく口に出してみる。
「だから蜃気楼なんだろう?意味なんてものはない。
それにあれは潤ってるようで潤っていないんだよ」
「……蜃気楼やからやろ?」
「まぁ、どこに逃げても潤いはないと、そういう事だ」
「つまり…安らぎはないってことか?」
「そう。生きている上で安らぎなんてもんは「カラカラ」なんだよ」
「…君、陰険…」
たかが蜃気楼ごときで人にけちをつけるな、と火村に小突かれた。
蜃気楼の話をしていたのに、問題を擦り替えたのはお前の方だといってやりたかった
が、その道路の先の蜃気楼を見ている火村に私はひどく心を乱される。

額にほんのり汗をかいている彼の横顔は、凛としていて何かが潤っている様に見えた。
心の隙間に誰も入らせない彼は自分を理解し、もっとも誠実で確信を持った
自信がある。
時折旅行先や彼の下宿先で見かける悪夢も彼の中で自己解決をしているものかもしれない。

「カラカラ」になりにはよ行こう、と冗談まじりに云って額に汗をかいている
火村のシャツのはしっこを引っ張る。
彼に顔を見られない様に俯きながら、追っても逃げる逃げ水に追われているような錯角
に捕われ、図書館に着くまで彼のシャツが離せなかった。

適度な距離感を保ち潤っているようで潤っていない「カラカラ」の蜃気楼。
今でも忘れる事なく覚えていて、時に「カラカラ」な私を彼は知っている事も覚えている。
私は未だに彼のシャツが離せない。

 

ザグザグザグ…
テンポの良い音が続くとしばらくその音がなくなって、また…
…ザグザグザグ
うむ。良い調子だ。


マンションに戻ってきた私は牛乳と共にスーパーの袋を引っさげて
帰ってきた。袋の中には季節ではないがたまねぎがたくさん。
なぜ?と表情に浮かべている火村にこれでカレーを食べよう、と
私は提案した。そして作ってくれるであろう友人は私が買ってきたたまねぎを
今、切っているのである。

「なぁ、なんでたまねぎだけなんだ?」
「ん?ええやん。たまには。それにたまねぎは血をさらさらにしてくれるんやで?
君にぴったりや」

あ、そうですか。センセ。といいながらまたたまねぎを切りはじめる。
火村がたまねぎを切っている間、私は彼の後ろ姿が見えない視角に座る。
もちろん彼からもー振り向いてもー私は見えない。
たまねぎを切る時は一人が良いのだ。

 

時々私はたまねぎを刻む。
もちろんたまねぎを刻むと目にしみて痛いのだがそれでも時々刻みたくなるのだ。
たまねぎの成分、硫化アリルとかいうやつが鼻から目にくるのだと昔きいたが、
鼻にティッシュを突っ込んで切ってみても目にしみるのだ。
どうにもこうにも痛い。
そしてまるで泣いているようではないか、と小説家らしく風情溢れる感想を云ったものだ。
もちろんそれはたまねぎの成分によってもたらされたものだが、時々刻みたくなる
理由はそれだ。

たまねぎの力でも借りて、という事だ。

しみて痛いけど、刻んだたまねぎは立派なおかずにもなる。
味噌汁にいれても良いし、炒めても良い。ハンバーグになんてもってこいだ。
もちろんカレーにだっていいのだ。
するとどうだろう。今まで塞いだ気持ちでたまねぎを切っていたのに立派なおかずが
並ぶとなると気分が良くなる。
そして手と手を合わせて「いただきます」といって黙々と食べる。
ちゃんと定義があって起こる事だからなんの不思議も感じない。
流すものに理由なんてものはない。
理由などなくていいのだ。


昔彼が云った「適度な距離感を保ち潤っているようで潤っていない「カラカラ」
の蜃気楼」というのは私達の事だと思う。
お互いに適度な距離を保ちつつ今まで付き合ってきた。
否、そうせざるを得なかったのは私の方で彼はいつも私を理解し受け止め、
無言ながらも背中を押してくれている。

あの頃よりは随分と心も年をとって、多少は潤いが自分の中に出来たと思う。
生活面や精神面や様々なものに。
その中にはたまねぎという小道具もあって、いかにうまく自分を誤魔化せられるか
しみた目でたまにやるのだ。
これがうまいこと起動に乗ればそれでいい。でもまだ「カラカラ」のままだと
不安でしょうがない。一定の距離を置く自分に嫌悪を感じ、私と小説を繋げている
ものに対して戸惑いを感じ、友人の所へ自分勝手だと思いながらも上がり込む。
そこで貰う煙草を吸っては昔、むせるような暑さと目の前の原稿用紙に
殴り書くように書いた初めての小説を、同じ様に初めて吸った煙草を思い出す。
そして貰った煙草のきつい匂いに別物だと、まったく別の煙草だと気付く。
他人事の様に昔を思い出しては年相応に見えないーといわれているーへらへらした顔で
そこを後にする。
学生時代からこんな事をくり返している私を火村は「チグハグ」だと云った事がある。
その意味を私はよく理解している。
一歩を踏み出せないと、私はよく理解しているのだ。


彼はたまねぎによる涙を流しただろうか?
…まさか鼻にティッシュ、という事はしていないだろうし、したとしても
あの成分はしつこい。季節ではないから若くないたまねぎだけども冷蔵庫にいれて
冷やさない限りどんなたまねぎだろうがしみるのだ。それに大量に買ってきた。


切る音が止んで軽く炒める音がしてきた。
…………煮込みが始まったらしい。


私は彼が泣き終わるのを視角からひっそりと待っている。
たとえたまねぎによるものでなくても私はこうして待っているだろう。
そして彼に手を差し伸べたいと思っている。
ー今はたまねぎによるものだがー

だがそんなことは天地がひっくり返っても無い事も知っている。
思う事はいつも簡単で、実に曖昧に、この思いは成しとがれる事はない。

「アリス、出来たぞ」

お~と歓声の声を上げてキッチンに入る。
カレーだ。
さぁ手と手を合わせていただきます、だ。

「明日のカレーもうまそうだな」
「そうやな。たまねぎがとろとろになってうまいんや」

それなら今夜中に肉でもいれとくかと、火村はいう。
うん。それがええ、と私。


彼を試すかの様に買ってきたたまねぎー小道具ーだったのに
まるで私が試されている様に思う。
手を差し伸べることを、如何にどうやって出来るのかと…。

でも確信は少なくともこの部屋ではある。

彼は未だこの私の部屋で悲鳴をあげたことはないのだ。
彼にとってのオアシスはここにあると、私はいつも確信に似た気持ちを
持って彼に手を差し伸べる事が出来るのだ。


「逃げ水」05/05/25