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「ぐるりぐるり」

「ぐるりぐるり」:双頭の悪魔:マリアと江神さんの家出の話。


「家出をしたことがこれまでにもあったのか?」
あの時「家出」と私の二十という年齢が結びつくとは思ってもなかったので可笑しかった。
そしてほんのりと江神さんと共感めいた気持ちを持っていた事も可笑しかった。

理由はそれぞれ違うけど手に持っている地図があるという事。
私はその地図を開く事はもうないのだろうと確信してるけど江神さんは違うと思う。
いつか、この人は地図を開く人だと思うから。

 

 

「はい。2度」
私は唐突に聞かれながらも正確に答えた。
はい、2度。小学生の頃と中学生の頃。
川の最初が気になって川上へ行った事。中軽井沢で半日過ごして宿に泊まろうとして挫折した事。会話ごっこに疲れた事。でもそれは苦い思い出ではなかったという事。

「…そうか」
江神さんは短くそう答えると三本目の煙草を手品師の様に指から指へ渡していたのを止めて口にくわえる。
私は急に照れくさくなってしまった。

「俺はずっと家出してる。何年も前から」
江神さんはそう云うとかちりとライターを鳴らしてくわえていた煙草に火をつける。
一口その煙りを吸うと勢い良く口先から外に放つ。
煙草を吸わない私はこんな時いつも可笑しな想像をする。
口から入っていった煙りはもやもやと食道を通り両肺に入ってそれぞれぐるりと回ると、入ってきた口から脱出するのだ。実際にはものすごい早さなのに
私の想像ではゆっくりとした動作になってしまう。
江神さんの話を聞いている間もその想像はぐるぐると回っている。

「…信じられんほどイカレタ母親やった」
可笑しいのか、小首をかしげながらも江神さんは目を細めながら云う。
私はアクションの起こし様がなくただ静かに聞いていた。

「愛情というもんは時に凶器やな」
掛け間違えるととんでもないわ、お互いに、と今度は口元を少し緩めて既に火のついていない煙草を灰皿に押し付ける。私の可笑しな想像も一緒に。

「マリアはもうせえへんな?」
唐突に云われたその言葉に私は思わずしゅんとしてしまう。
まるで怒鳴られ、拳を喰らったような叱りを受けた子供の様に。
何をしないのか、分からない事はないからだ。
自分の右手をぎゅうっと強く握るとそこにあるはずない地図がくしゃくしゃになる感覚が分かる。

「…はい」
あるはずのない地図を手の中に納まるぐらいくしゃくしゃにして強く握っていた右手を放つ。
それは床に落ちて、今まで手の内にあった感覚が名残惜しくなった。

「残像は残ってても無意味なもんや」
私はもう一度返事をする。はい、と。
でもそれは私だけに向けられた言葉じゃない。

「ここを出ればモチさんや信長さん、アリスも叱ってくれると思います。そしたらたくさん泣き喚いてたくさんわがままいって、たくさん感謝したいと思います」
うん、そうしたらええ、と江神さんはにっこり笑う。

「もちろん江神さんにもたくさん感謝してます」
「はは、可愛い後輩やからな。少女探偵」
江神さんはぽん、と軽く私の頭に手を乗せるとまるで猫を撫でているような仕種をする。
よしよし、いいこいいこ。と、そういう感じ。

「行こうか」
「はい」
姿も形も知らない江神さんの母親の「掛け間違い」を少し憎らしく思い、残像という愛情に報われない、「掛け間違える事がない」江神さんをこれからも信じられると思った。

その日から煙草の煙りは肺という密室に閉ざされている想像を巡らせる。
口から入っていった煙りはもやもやと食道を通り両肺に入ってそれぞれぐるりぐるりぐるりぐるり……、永遠と回り続ける。

江神さんの手には未だ見えない地図が握られている。
出口は何処?

 

 


「ぐるりぐるり」05/06/02





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